『Shi-na(シーナ)』は、中学時代のあだ名です。当時は、『しーな』とか『しなちゃん』と呼ばれていました。旧姓の『倉科(くらしな)』からとったあだ名です。
姉も私も結婚して姓が変わってしまったので、旧姓を少しでも残したかったという理由と、女性として成長を始めた中学生の自分が、誇らしく思える大人の女性になるという想いから、サロン名を『Shi-na(シーナ)』にしました。
お客様のお肌と向き合っているうちに、私自身の弱い肌は、私の強みとなり、自宅サロンと出張エステのお客様はしだいに増えていきました。
その頃、東京、千葉、埼玉の出張エステのお客様は200名を超えていて、早朝に出かけて帰宅が深夜になる日もありました。
ある日、出張先へ向かう早朝、私は自分が運転する車が中央分離帯にぶつかった衝撃で、目を覚ましました。目の前を走っていたメルセデスに追突しなかったのは、不幸中の幸いです。そのとき、『これ以上、出張エステを続けていたら、また事故を起こしてしまうかもしれない。』と思いました。
その後、各拠点でご希望されるお客様に化粧品の知識とエステの技術をお伝えして、お客様の引き継ぎをさせていただき、私はサロンワークに専念して、自宅サロンに引きこもる生活になりました。
『本当にこれでいいのだろうか。』
いつもそんな思いがどこかにありました。
ある日、出張先の友人のサロンで占い師さんと出会いました。私は当時、占いには全く興味がなく、あまり気乗りがしなかったのですが、お付き合いでお願いしました。
占い師さんは私を目の前にして突然『あなた、子宮が...』と言いました。自分でもびっくりしたのですが、たったその一言で、私はボロボロ泣き出してしまいました。
約3年の間、子宮内膜症の手術、痛くて気を失いそうになる卵管の通水、毎日のホルモン注射、色々な不妊治療をしていましたが努力の甲斐はなく、私の心は狭くなっていました。友人の懐妊を喜ぶこともできない、辛い時期でした。
占い師さんは『旦那さまと恭子さんは、いつまでたっても学生カップルのような仲良し夫婦だから、かすがいの子供はいなくても大丈夫。恭子さんは手先が器用で勉強好きで、美容の仕事がとても向いている。今は個人でやっていくのがいい。今のままで大丈夫。』 と言ってくれました。私はずっと誰かにこの言葉を言ってもらいたかったのかもしれません。
私は主人と相談して、不妊治療をやめることにしました。9才年上の主人はいつでも私のやりたいことを応援してくれて、温かく見守ってくれます。
実際に不妊治療を体験して、不妊で悩む女性がとても多いことと、不妊治療の実態を知り、私はますます女性の体をサポートしていきたいと思うようになりました。
出張エステをやめたことで少し時間ができた私は、あらためて学校に通ったり独自に学び、様々な資格も取って、お顔だけでなくお体全体のトータルのカウンセリングと施術ができるようになっていきました。
つづく
◆美容家恭子 20代のときの話(1) /archives/1630
◆美容家恭子 30代 美容の仕事を始めたときの話(2) /archives/1665