心と体とお肌をトータルサポートしてくれる良心的なビューティーサロンがあればいいのになぁ...と思ったのは、私が大手住宅メーカーの研究所で働いていた20代後半のときでした。
大学は工学部建設学科。就職したのは兼ねてからの希望だった大手住宅メーカーの新商品開発室。すんなり就職が決まった訳ではなく、様々な住宅メーカーの面接や試験に落ちて、円形脱毛症を作りながら掴んだ就職でした。
私は中学と高校でバスケット部に所属していたのですが、引退するたびに太り、高校を卒業するときの体重は168cm 70kgでした。浪人と大学時代の5年間でなんとかダイエットに成功。入社するときは55kgぐらいまで体重を落としました。
職場は茨城県つくば市。都内の実家に住んでいた私は、つくばのワンルームマンションの社員寮に引っ越しをして、1994年の1月から一人暮らしを始めました。
都内の人混みと通勤電車が苦手だった私は、最初は片道10km程度の車通勤を喜びましたが、すぐに終電が無いコワさを知りました。車だとどんなに遅くまで仕事をしても、帰れます。
今ではもちろん改善されていますが、当時の私の残業時間は、毎月100時間を余裕で超えていました。でも、残業代と深夜残業代、休日出勤手当を満額出してくれる良い会社でしたので、20代の女性会社員にしてはお給料は良かったかもしれません。
最近では残業過多や、逆に残業削減による激務で心を壊してしまう方も増えてきているようですが、当時の私は、やり甲斐がある大きな仕事と、チームの仲間たちと一緒に過ごしたあの濃厚な時間が、今でもとても良い思い出です。
私の仕事は住宅建築に必要な部品設計が中心でした。工場や試作棟の建設現場や、全国各地への出張も多く、男性ばかりの環境の中では体力が追いつかないときもありました。忙しいときは深夜2時頃まで仕事して、寝るは3時頃。朝起きるとお風呂に浸かって目を覚まし、カロリーメイトを2本食べて9時半に出勤。お昼は社員食堂でご飯を食べて、夜はコンビニご飯とドラックストアで買ったサプリメント。毎年少しずつ痩せて、一番痩せたときは49kgでした。憧れの40kg台でしたが、『痩せてキレイになったね』なんて、誰からも言われませんでした。親しい人が私にかけてくれる言葉は『大丈夫?』でした。
私は子供の頃から肌が弱く、体の疲れやストレスは、すぐに皮膚トラブルになりました。そのころの生活習慣では、いくらエステや皮膚科に通っても肌が良くなることはなく、アトピー性皮膚炎と湿疹とニキビで、肌はブツブツでした。
大手化粧品メーカーの美しい販売員さんが勧めてくれる化粧品で、私の肌は何度もトラブルを起こしました。私は、肌トラブルを知らない美しい美容部員さんが、とても苦手でした。
大手エステサロンのエステティシャンからは、『あなたの様な状態だったら、私は恥ずかしくて生きていけない。だから契約してエステに通えば、私の様にキレイになれる。』と言われたこともあります。肌が美しい人はこんなにも自身満々になれるものなのかと感心もしましたが、やはりショックな出来事でした。でも、そのエステティシャンの言葉があったからこそ、『何がなんでも絶対キレイになってやる』とメラメラしたのは間違いありません。いつだって、出会う人は必然なんだなぁと思います。
その後、すぐに別の大手エステサロンに脱毛に通い始めました。まだ脇の脱毛だけで何十万円もした時代ですが、毛が濃いのは子供の頃からのコンプレックスでしたので、真っ先になんとかしようと思いました。
そして、会社の先輩と派遣のお姉さまが、私の肌トラブルを見るにみかねてか、某化粧品メーカーのフェイシャルエステに誘ってくれました。私を担当してくれたビューティーアドバイザーさんは、今まで出会った売上重視の美容部員とは違いました。いつも丁寧に食事のことや、化粧品の使い方を指導してくれました。おかげで私のブツブツの肌は約4ヶ月間でかなりキレイになりました。そのとき、女性を美しくする仕事にキラキラした憧れの様な気持ちを抱きましたが、私にはほど遠い世界でした。
そして当時の私は、お尻が大きく、足がO脚で太ももが太く、長時間勤務や出張でいつも足がパンパンに浮腫んでいました。肩首背中は鉄板が入っているような硬さで、冷えと生理痛と花粉症もひどく、慢性的に血行不良の状態でした。
そこで、会社の女性の先輩が紹介してくれたカイロプラクティックに通い始めました。毎回丁寧に体をほぐし、骨を関節を調整していただぬおかげで、O脚はだいぶ改善し、お尻も小さくなり、生理痛も少し改善されました。私は今でも体のメンテナンスのために通っています。
日本カイロプラクティックセンターつくは
http://www.jcc.e-tsukuba.jp/
そして、皮膚科。皮膚科の先生が処方してくれるのは、抗アレルギーとビタミンBの錠剤、ステロイドの塗り薬、ニキビ用の塗り薬。何年も使用した副作用は大きく、肌はいつも赤く過敏な状態でした。皮膚科の先生に『あなたは皮膚科と縁が切れない』と言われていました。
元気でキレイな体になるために、休日に3ヶ所ハシゴするときもありました。でも、そのうちにあちこち通うことに疲れてきて、『一人の良心的な美の専門家がトータルサポートしてくれるような、隠れ家的サロンが近くにあればいいのになぁ...』と思うようになりました。
私が家の設計に関わる仕事をしたかった理由は、父の仕事で引っ越しが多かったことに関係があります。私達家族は様々な社宅や借家で暮らしました。そのせいか、私は幼少時代から家やインテリアにとても興味がありました。実際に住宅の新商品開発の仕事にも携わることができたことは、本当にラッキーだったと思います。でも、いつもどこかしっくりこない感じに悩んでいました。それは大きな会社の組織にいられる性格ではなかったからだと思います。係長の年齢が近づいてきた時には、本当にもう無理だと思いました。でも、他にやりたいことは何も思いつきませんでした。なので、悶々としながら黙々と仕事をしていました。
そんな中、30才の誕生日を迎える少し前の2000年の11月、9才年上の職場の上司と結婚して退社することになりました。あんなに辞めたかった仕事なのに、辞める直前は毎日泣いていました。仲間達が『恭子メモリアルゴルフ』というコンペ作ってくれました。第一回のコンペの帰りに結婚届けを出して、仲間達に送別と結婚のお祝いをしてもらったときも、たくさん泣きました。
でも、夢にまでみた自由な時間と憧れの専業主婦は、2週間で飽きてしまいました。
それから本気の第二の人生探しが始まりした。なんとなく、カラーコーディネーターや福祉関連の資格を所得したりしてみましたが、ピンとくるものではなく、何をすればいいのかわかりませんでした。失業手当をいただきながら、ハローワークや求人広告で仕事探し。その時は、自分が美容の道に進むなんて、これっぽっちも思っていませんでした。
つづく